学校教育はなぜ必要か  

X. 習熟(⇨自動化)がもたらす4つの効能

「頭を使って何とかわかるというレベルではなくて、頭を使う必要などなく、おのずとわかる、即座にわかるというレベルにまでなっていることが必要である」と、述べてきました。それについて、それがどのような効能(メリット)をもたらすのか、考えてみたいと思います。4つの効能(以下では、赤字で記す)をもたらすと考えられます。

 

a) 習熟(繰り返しの練習)がもたらす4つの効能

「我々は、原則、一度に一つのことしかできない」

人間の能力は案外、たいしたことがなくて、特にある瞬間、ある瞬間にできること(考えたり、判断したり、文を理解することなど、意図的に行うこと)は、ごくわずかで、原則的には、たった一つしかできません。例えば、貴君は、「私はいつも音楽を聞きながら勉強している」とおっしゃるかもしれませんが、少し考えてみて下さい。本当に勉強に集中しているときには、耳には同じように届いていても、音楽は聞こえていないのではないでしょうか。反対に、好きな音楽が流れてきて聞いているときには、勉強はいったんお留守になっています。また、文章を読んでいて、知らない単語が出てくると、本来の文の理解のほうは一時ストップさせて、辞書を引くなどして、その単語について調べます。

 

 しかしながら、 「免許取り立ての人でなければ、運転しながら、十分音楽を聴いたり、同乗者と会話をしたりできるじゃないですか!」 と、 「一つしかできない」 というこの考え方に疑義を持たれる方がおられるかもしれません。

習熟した作業(自動化)

上で、「考えたり、本を読んだり、などの頭を使うことは、原則、一度に一つしかできない」と申しました。しかし、実は、“頭を使わずにできること”であれば、同時に複数のことが可能です。

 


 

 

運転を例にしますと、ベテランのドライバーであれば、車がスムーズに走っている状況では、ラジオを聞きながら、あるいは同乗者とかなり込み入った会話をしながら、十分運転可能です。反対に、免許取りたての新米ドライバーでは、車を運転するだけで精一杯で、同乗者との会話などはとても無理です。つまり、新米のドライバーでは、注意を集中して、頭を使って一生懸命に運転しなければなりません。そのような状態では、運転だけで精一杯で、同時にほかのことをするなど、とても無理です。では、両者のこの差は、どこからくるのでしょうか?

 

以下で、この点について、繰り返しの練習(習熟)がもたらす4つの効能の図式を参考にして、説明していこうと思います。

1. 習熟による技能の質的向上

自動車の運転では我々は、繰り返し練習することによって、だんだんとうまくなっていきます。そして、何度も何度も練習していくと、最初とは比べものにならないくらいに上達します(習熟)。新米とベテランドライバーの差は歴然です(質的向上)。

 

例えば、小学生の漢字の練習では、いちいち手本を見ながら、場合によっては一画一画確認しながら書く必要があり、そうやって一生懸命練習します。それでも、書けた漢字はぎこちないものでしょう。知らない漢字は、大人でも手本を見ながら、注意してゆっくりと書く必要があります。それでも、小学生でも何度も練習を重ねていくと、手本なんか見ずにすばやく正しく書くことができるようになります。他方、大人では、何年にもわたって何度も繰り返し漢字を書いていますので、大半の漢字を手本なんか見ずに書くことができます。しかも、達筆か、悪筆か、大きな個人差はありますが、すばやく正確に書くことができます。

 


 

 

2. 習熟による自動化

練習・学習を何度も何度も繰り返しますと、上記の技能の向上だけではなく、注意や努力をしなくても、“頭を使わなくても” できるようになります。例えば、先ほどのベテランドライバーでは、頭を使うくことなく、言わば“自動的に” 運転できるようになっていて2.)、そのおかげで、平行して同乗者と会話を交わすことなどが可能になっています。

 

繰り返しの練習による習熟:運転練習でも、最初(教習所での練習期間などで)は、一つずつの運転動作について、頭を使いながら一生懸命、繰り返し、繰り返し練習します。そうやって、やがて頭を使わずに運転できるようになるわけですが、そこに至るには、免許が取れたくらいではまだまだ無理で、大半の人にとっては、最初の免許更新時期くらいまでかかるのではないでしょうか。無論、ベテランドライバーでは、長年の運転経験によって、“ほとんど自動的に”、運転ができるようになっています2.レベル)。

 

しかしながら、読者諸氏の多くの方は、「なるほど運転やスポーツでは、いわゆる身体で憶えて、”自動的に”できるようになるというのは、ありうることかもしれない。しかし、勉強などの知的作業には、当てはまらないのでは?」と、思われるかもしれません。しかし、実際には、我々の知的な作業も、“自動化された” 数多くの下位の認知技能、たとえば、先の❷の中で述べた脳内言語辞書や基本的計算能力によって強力に支えられています。そして、もしも、それらがなければ我々は文一つ読めないのです(後で、詳しく述べます)。たとえば、日常的に経験されているように、(漢字を何度も何度も繰り返して書いてきた)大人では、大半の漢字をどう書こうなどと考えることなく、いとも簡単に書くことができます。さらに、我々は自分の考えや思いを、漢字の書き方などまったく意識しないで、すらすらと(ほとんど自動的に)書くことができます。

 

また、想い出していただきますと、貴君は、❶の中の「V. a)言葉の意味と文脈」で述べた例文を、たやすく理解できたことさらに、「V. b) 言葉の持つ複数のイメージ(トリの写真)」で示したように、それぞれの文に対してふさわしい「トリ」のイメージが直感的にわかったことでしょう。これらの2点は、そのような認知作業が、我々が、すばやく、頭でいちいち考えることなく、ほとんど“自動的に”できることを物語っています。

 

3. 肝要なことに集中できて、それらに頭を使える 

しかも、そうなれば、上記の1.2.だけでなく、もっといいことが起こります。すでに述べたように、ベテランドライバーであれば、運転と平行して、頭を使わなければならない課題(例えば、同乗者とのかなり重要な会話など)を平行して行えます。このように、ある作業について習熟していて、それにほとんど頭を使うことなくできる(2.)ようにであれば、もっと複雑で頭を使わなければならない、集中しなければならない課題を平行して行うことができます(3.)。

 

以上の点について、テニスのサーブの例をあげて、もう少し説明しましょう。

・テニスの例:スポーツの場合でも、運転の場合と同じことが起こります。テニスのサーブでは、最初は、一つずつの動作について頭を使って、集中して練習をします(下のイラストを参照)。「ボールを少し高めに上げて、ラケットの面がボールと直角になるように振ろうとか、もっと力強く振ろうとか、フォローが大切だとか、すばやく振ろうとか、体の向きにもっと注意をしなければ、など」とかの、サーブ動作の各側面の一つずつに集中して、頭を使いながら、練習していきます。そういう練習を、繰り返していきますと、だんだんと上達していきます(1.)。でもそれだけではなくて、何度も何度も繰り返し練習していくと、すでに、運転や漢字の練習を例にして述べたように、やがて、色々なタイプのサーブを、頭で考えることなく、そうしようと思っただけで、“自動的に” できるようになります(2.)。

 


 

 

・テニスの場合でも、3.が実行可能となる上記のように、サーブの基礎的な動作・技能を、頭を使う必要がなく、ほとんど“自動的に”できるようになります「2.」。そうすると、試合中色々と考えなければならないこと、たとえば、相手のプレイの予測して対応策を考えるとか、試合状況について考えられなどが可能になります(3.)。つまり、自由に種々のサーブが打てるくらいになってはじめて、「左のほうに数回続けてサーブをしたので、今度は右の方をねらってみよう とか、「次ぎは、スピンを効かせて打ってみよう」とか、などと、相手の状態を考えたり、それにもとづく戦略を考えたりと、たとえば、「今はチャンスなので、なんとしても全力で頑張らなければ!」などとすることが、可能になります。

 

3.」の重要性

特に注目すべきこととして、運転の場合とは違って、テニスの場合には、「3.が与えてくれる上記のような効能は本質的な重要さを持っています。つまり、ドライバーの運転と、テニスの試合で、1.と「2.」の効能は、ほぼ同じですが、「3.がもたらす効能は根本的に異なります。ドライバーの場合には、同乗者と話をしたり、ラジオを聞くことができるようになったとしても、運転に特別なメリットはありません(おそらく、自動車レースの場合にもドラーバーは色々なことを考えることが必要であると思われますが)。しかし、テニスの場合には(それ以外のスポーツでも)、相手の技量や傾向を考えたり、あるいは、相手のプレイを予測して、それらに対応したプレイや戦略が実行できるようになることは、とても重要です。

 

上でも述べたように、たとえば、「前のほうにボールを落とされそうなので、ネットの前に出よう」とか、さらには、試合状況を考えて、「今は、チャンスだ。頑張らないと! とか、考えることができるようになります。しかも、それらができて始めて、本当の意味で試合をしていることになるのではないでしょうか。ですから、3.は、どのスポーツにとっても重要な中核部分と言えるのではないでしょうか。このように、「3.」の効能は、クリティカルポイントです。非常に重要です

 

4.   3.考えたことが、新たな記憶となる

テニスのサーブの練習でも、小学生の漢字の練習でも、一生懸命集中して、頭を使って練習してたことが、憶えられていって習得/学習されていきます。車の運転でも、教習所の頃には、一つ一つの車の操作に集中して練習して憶えたはずです。

つまり、「3.」では、集中して、努力して、頭を使ってするわけですから、「3.」でしたことが、学習され習得されていきます4.」。(こういう意味でも、3.」は重要です)。さらに言うと、それが繰り返されると、やがてもっと習熟していって、2.にまでいたる、2.」が達成されることでしょう。

 

念のために、これらの4つの効能(「1. 2. 3. 4.」)の関連性について整理して述べておきますと、それらは互いに独立しているのではなくて、図式のように、相互依存的です。「1. 2.ができて始めて、「3. 4.」が可能となります。そして、さらには、その「3. 4.」を繰り返したことが、「 2.」となっていきます。

 

b) 文章を読むとき

文章を読むことを論理的に考えてみますと、以下のようになるはずです(下の図式)。まず、@一つ一つの文字が何であるのかを知覚すること(文字の知覚)。また、話しを聞いている場合には、まず、一つ一つの音声が何か分かること(音韻の知覚)。次に、Aそれらのつながりを単語として区切っていく必要があります。それから、Bそれらの単語の意味を、頭の中にある辞書から引き出して知る必要があります。さらに、Cその単語の役割とその文の文法構造を知ることが必要です。最後に、それらを統合して、Dその文の意味を理解することになるはずです。(なお、Eについては後で述べます。)

 


 

 

1. 脳内言語辞書からの支援

しかし、上記は正しくはありません。我々(学生や成人)では、日常的に読んでいる文章では、上で述べた過程(@〜D)などはまったく自覚なしに、スムーズに、そしてスピーディに読んでおられることでしょう。ご自身を振り返えっていただいて、あなたは上記の@〜Dまでの過程のところでいちいち考えて読んでおられますか? (無論、知らない漢字や単語が出てきた場合は別ですが)。普通に文章を読んでいる場合には、そんなこと(@〜C、D)には気づくことさえなく、読むと同時にその文の意味を理解されているのではないでしょうか。

 

それは、下の図のように、❷で紹介した)当人がこれまでに習得してきた「脳内言語辞書」に、いろいろな面で支えてもらって、読んでいるからです。つまり、まず、❶で述べたように、我々は文字レベルではなく、単語単位で読んでいます。そして、❷で述べた脳内言語辞書の助けを借りて、その単語の意味もおのずとわかり、文の構造(主語や動詞やその他、及び、それらの関連性 ⦅文法⦆)もわかって、それらを統合した文の意味も即時的に理解することができます。しかも、多くの場合、それらの過程は頭であれこれ考える必要などまったくなしに、たやすくできます。

 


 

 

2. 文章を読むときのEの過程(=文章を読むこと)

上記のように、@Dの過程が、頭を使うことなく、スムーズにできてはじめて、(ある意味余裕ができて)、 Eが可能となるのです。つまり、「3. 肝要なことに集中できて、それらに頭を使える ことができることになります。具体的には、Eにあげた内容 その文章の全体の流れや主旨を理解することや、自分がまだ知らないことを見つけだして注目して、重要だと判断すれば、それらを意図的に憶えようとすること、場合によっては、自身の意見や考えを考え出すこと」、などを行うことできます。そうなると、「文章を読んだ」いう自覚が生まれることになります。それを裏づけるように、きっと貴君は、文章を読むこととは、「その文章について理解し、考えること(E)」であると思われておられることでしょう

 

ここで強調しておかなければならないのは、Eより前の部分(@〜D)に特別頭を使うことなく、ほぼ自動的にできるからこそ、Eに集中して頭を使うことができるのです。そして、そうなると、さらに重要なことに、「4. 考えたこと(「3.」)が、新たな記憶となる」ことです。つまり、最終段階として、Eで考えた内容が、記憶に残される。つまり、新しい知識が習得されるのです。

 

3. 脳内言語辞書の習得 (A stage)

ところが、読んでいる文章中に、まだ知らない単語や漢字がいくつか出てくることがあります。特に、学校の勉強では、新しい漢字や単語や概念を学ぶために勉強しているわけですから、知らない言葉が含まれているのがむしろ普通です。また、当人にとって新しい分野では、文章の中に新しい言葉や概念などが当然出てきます(下の図)。

 


 

 

そのような新しい漢字や単語は、脳内言語辞書にはないので、その単語の意味などを辞書などで調べて、そしてわかったことを一時的な記憶に残しておいて、それらへの注意を保ちながら、文の中のほかの語との整合性を考えながら、その文全体の意味を理解しようとすることでしょう(この図式の中のE)。そのため、この場合には、文章を読んでいても、それらのこと(DとEで精一杯でしょう。そうすると、新しい漢字や単語について、DとE’で注目し、考えることでしょう。そうすると、その単語の意味、特にその文(文脈)における意味などが記憶に残されることでしょう。つまり、そのようなことが脳内言語辞書に蓄積されていきます(上の図式)。さらに、同様なことを何度か繰り返されると、それらの記憶について習熟して、その単語を見ただけでその意味がわかるようになることでしょう。

 

このようにして、その人の脳内言語辞書が、より高度な単語や概念を含むものに増補改訂されていくことでしょう。そのような増補改訂は、文章を読む能力を広げ、向上させ、進化させます。ですから、このA stageは、学校での勉強としてとても大事な過程なのです。

 

4. 真の学習(教育の目標地点、B stage

教育(勉強・学習)の目標は、文章が楽に読めて、読んだ内容について十分に理解できて、(先の「 文章を読むときのEの過程」ですでに少し説明しましたように)、その文章について考えて(E)、その文章から知識を習得することでしょう(下の図)。そのためには、(十分なA stageを勉強して)、その文章を読むために必要な語彙を十分にカバーした「脳内言語辞書」を習得していて、文の中の単語やその意味・概念などに特別頭を使うことなく、ほとんど自動的に理解できることが望ましいはずです。先にも述べましたように、そうしてはじめて、Eの過程が可能になるからです。そうすると、下の図式のように、そうやって考えたことなどが記憶に残り、新しい知識を習得していくはずです(“脳内百科辞典”のバージョンアップ)。

 


 

 

 

なお、ここが本稿のキィポイントなので、すでに述べた「繰り返しの練習(習熟)がもたらす4つの効能」の図式を使って、再吟味しておきましょう。まず、それまでの勉強の成果である脳内言語辞書(「1.」と「2」)の支えによって、@〜Dまでの過程を難なく速やかにこなすことができます。そうすると、「3.肝心なことに集中できて、それらに頭を使える」ので、Eの内容に集中して頭を使って考えることができます。そうなるとその結果として、「4. 3.で考えたことが記憶に残る」ので、Eの内容が記憶に残り、新たに習得されることになります。ですから、勉強を進めて行くには、A stageの課題を何度も反復練習して、B stageが十分実現できるように準備することが求められます。(これは学校教育の重要な役割と考えられます)。

 

 ここで少し補足的な話をしておきますと、

5. 認知フレームの習得

しかし、このような学習(A stageB stage)をくり返していきますと、ここまで述べてきた「脳内言語辞典」や「脳内百科事典)に加えて、もう少し“大局的な知識” も習得していくことでしょう。つまり、以下のような基本的枠組み(強いて言えば、認知フレーム)も習得していくと考えられます。

・知識+ルール

繰り返し起こることについて、何らかの共通性(ルール)に気がつき、理解していれば、それによって予測が可能で、色々な現象などをたやすく理解することができます。例えば、毎年、季節は繰り返します。そして、日本の夏は非常に暑い。そういう知識によって自分自身の行動を方向づけ、他の人の行動などを予測し理解できます。また、毎日繰り返す、1日のリズム(朝、昼、夕方、夜)も、自分自身の行動を方向づけ、他の人の行動、社会的な習慣などなどを予測し理解することができます。

 

以下の4種類の概念を知ることも、考えること、理解することに役立つでしょう。

・スキーマ 過去の経験・記憶によって構造化された概念。(ある物事に関する経験・記憶が集まることで、それらをひとつの一般的知識として捉えられるようになる)。

 

・パラダイム ある時代あるいは、ある専門分野におけるものの考え方・認識の基本的枠組み、規範。

 

・因果律(因果関係) 「結果と原因の関係」および「何事にも原因があるとする原理

ほとんどの現象には、その前に何らかの原因がある。反対に、今していること、起こっていることは、将来のことの原因となるという考え方。それは、どれとどれとが、原因→結果関係であるのか判別しなければならないし、偶発的な事象もあるものの、素朴な原則としては多くの場面で有効です。(ただし、まれには、固定観念として、あるいは、間違った運用によって、本人が気づかないまま、正解を見誤らせてしまう場合があるかもしれませんが。そういうことへの対策を学ぶことも必要です)。

 

・3項随伴性 心理学(オペラント心理学)では、種々の行動を、先行刺激→(問題としている)行動→結果という枠組みで理解しようとします。

 

・理屈はまだ十分に解明されていないが、正しい答えを導き出していることが多くあること(これは現在重要なアイデアである)。なお、この点については、すでに「理屈を上まわる言語能力」として、少しふれました。

 

例えば、我々は人の顔(自身の顔も)を認識し、弁別できるが、どうやってそれを達成できているのかを自分でははっきりとはわかっていない。しかも、心理学の中のパターン認知の専門家でも十分に解明できているわけでもない。でも、最近では、コンピュータのAIとか、深層学習は、人間のする学習のように多数の例について学習させること(教師あり学習)によって、人間の正答率を少し上回るくらいで正解を出してくれる。

 

「理屈を上まわる言語能力」のところで述べた、「“は”と“が”」の使い分け、英語の「“a”と“the”」使い分けなども、「本当のところ、その理屈(理論)を完全にはわかっていないが、人間(子供でさえ)は日常的に正解を出して使っている」という現象も、これに該当すると考えられる。

 

・起承転結や3段論法のパターン

統計学的な考え方 例えば、ものは必ずしも1対1対応をしているわけではない。

・平均値(代表値)の利用 (ただし、多くの方がその弊害までを理解しているわけではないようですが。)

・確率論的な考え方

・本音、建前

・各個人が持っている信念、素朴心理学

 

これらは(上にあげたもの以上に、もっと様々なものがあるかもしれませんが)、考えること、理解することを助けてくれる補助手段、便利で有用な道具として役立つことでしょう。れらを憶え、習得することで、より正しい思考が、比較的容易に可能になることでしょう。そして、こういうものを獲得していくことが、その人を賢くしてくれることにもなるでしょう。

 

以上の項目も原則、原理を学んだからといって、直ぐに使えるものではありません。たくさんの具体例を経験・勉強して身につけていくものです。そのためにも、学校教育の中で繰り返し、繰り返しの勉強が必要とされるのでしょう。(このことは、長年にわたる学校教育が施行されている理由でもあると考えられます)。

 

ピアジェが彼の認知発達理論で提出したような、人間は幼少時期に、「対象の永続性」、「自己中心性」などの世の中の根本原則を習得していくように、ここで述べた認知フレームなどを学校教育の時期に、成人として働けるように、習得していくのではないでしょうか。

 

 

6. A stageB stage類似性

先にあげたA stageB stageについて、ここで改めて考えてみたいと思います。

 

A stageB stageの混在

すでに述べたように、A stageは勉強の途中手段であり、B stageは本当の勉強をすることと言うことができます。しかし、A stageB stageは程度の差であって、実際には、両方の間に明確な境目があるわけではありません。

 

ただし、原則論で言うと、学校教育に、学校制、学年制があるように、小学校2年生の課題の文章を理解するため、つまり、それらをB stageとして学習するためには、1年生の課題について十分なA stageを勉強して、2年生に必要な言葉や知識を知っておく必要があります。しかし、もっと細かく見ますと、勉強の進め方としては、非常に小さなステップでのA stageB stageそしてまた、A stageB stage、そしてまた、A stageB stageへと、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥へと、向上していく、らせん階段を上っていくような道程ではないでしょうか。

 

A stageB stageは、実はよく似ている

しかし、A stageB stageは、異質なものではなくて、よく似ています、まず、下の図式のように、両者で対象としているもの(A stageE:知らない漢字、単語、概念などB stageのE:知らない事実、知識、理論など)が異なるだけで、それ以外の部分はたいへんよく似ています。

 


 

 

しかし、両stageEとEの中でしている操作もよく似ています(下の図式)。1)両者とも、意識的に考えることです。2)両者の最大の機能は、知らないことを見いだして、それに注目して、それを理解しようとすることです。3)A stageでは、知らない漢字、単語、概念に出会うと、その意味・機能を、(辞書を引くなどして)、理解しようと頭を使って考えます。B stageでは、文章全体として知らないこと(知識、考え、理論など)に注目して、それを理解しようと頭を使って考えます。

4)そして、両者ともに、それらを意図的に憶えようと努力します。つまり、A stageでは、“脳内言語辞書”に追加して書き入れようとします。B stageでは、“脳内百科事典”に追加して書き入れようとします。

 


 

 

) 以上のE’とEの過程の結果として、記憶されるもの、蓄積されるものは、A stageB stageとでよく似ており、両者とも言葉そのもの、あるいは言葉であらわせるものです。言い換えると、“脳内言語辞書”と“脳内百科事典”は、まったく別なものではなくて、両者には明確な境目はなくて、言わば連続しています。) 両者の最終的な役割は、ともに、自分の中に記憶しておいて、必要とされた場合に、速やかに利用できるようにしておくことです。

 

A stageB stage

以上のようにE’とEはよく似ていますので、下の図の右端の図のように、ひとくくりにすることが可能と思われます。

 


 

 

 

c)文章を書くとき(話すとき)

最後に、文章を書くとき、話すときも、自動化された下位技能に大いに助けられています。それどころか、それらがいわば勝手に働いてくれなければ、スムーズに書くことも、話すこともできないのです。我々は、まず言いたいことの内容を考えて、そして、大切なポイントを確認したり、全体の流れを考えたりしながら、文を書きます/話します。しかし、実際には、文字として書いていく(あるいは、音声として話していく)には、下の図式のようにまだまだなすべきことがたくさんあります。しかし、ほとんどそういうことは考えずに、(言い換えると、上のようなことだけを考えて)、書いたり、話したりしています。それは、それらの下位の認知作業(A、B)は、長い間の勉強/練習によって、頭を使わずに自動的にできるようになっているからできるのでしょう。ですから、我々は、自分は@だけをしていると思っているのです。あるいは、そうしていると思うことができるのです。

 


 

 

 

この❸(X. 習熟(自動化)がもたらす4つの効能)の結語:以上のように、話すこと、読むこと、書くこと、考えること、理解すること、つまり我々の知的作業には、@辞書的な記憶(脳内言語辞書)やA知識の記憶(脳内百科事典)と、Bそれを運用する能力(ほとんど“自動的に”、言い換えると頭を使うことなく、自在にアクセスできること)や、Cそれ以外の自動化された下位の認知技能によって支えられています。もし、それらがなければ、我々は文一つ読めないのです。何の知的作業や種々の活動(運転やスポーツ)もできないのです。しかも、Dそういう認知技能、脳内言語辞書をある程度持っていてはじめて、次なる認知技能や、新たな言葉や概念を習得すること(=A stage)、あるいは、新たな知識、理論、知見を習得することができるのです(=B stage)。