学校教育はなぜ必要か❷ -認知心理学からの試案-
W. 習熟のプロローグ
❶の最後の表(上に再録)の中で、「c) 頭を使わずに、ほとんど自動的にできること」が、一番のキィポイントだと考えています。想い出していただくと、たとえば、「a)言葉の意味と文脈」で述べたように、複数の意味を持つ言葉について、貴君は、(各例文の中で、その言葉のどの意味が正しいのだろうかなどと、わざわざ考えなくても)、読むと同時にその文にふさわしい意味がすぐにわかったことでしょう。また、「b)言葉の持つ複数のイメージ(トリ)」についても、「昨夜、友人とトリを食べに行きました」と言われた場合に、(わざわざ、「食べるトリとは、何だろう?」 などと考えなくても)、その文を読むと同時に、「焼き鳥だろう」とすぐにわかったことでしょう。以上のように、我々は、ほとんどの場合、状況や文の前後(文脈)から、それらにふさわしい言葉の意味やイメージを、(特別考えることもなく)、読むとすぐにおのずとわかるようにして、ほとんど“自動的に”、わかります。
そのようなことができるのは、以下のような辞書(脳内言語辞書)を持っているからできるのでしょう。
1) 脳内言語辞書 (我々人間が脳に持っている言語辞書)
我々は、ほぼ高等学校を卒業したくらいで、多くの文章をスムーズに読むことができます。ですから、そこまでの学校の授業や、あるいは実社会での勉強などによって、我々は、以下のような要件を満たした言語辞書を自身の脳内に習得、形成しているのでしょう。
反対のことを申しておきますと、おそらく皆様も経験されたことがおありのように、知らない漢字や単語が出てきた場合には、それに立ち止まって、辞書を引くなり、人に教えてもらったりして、それについて考える必要が出てきます。それについては、それらの単語がまだ習得されておらず、脳内言語辞書にまだ収録されていないためと考えられます。
その脳内言語辞書について、考えてみてみましょう 。
・単語単位:❶の中でも述べましたように、我々は単語を基本的な単位として、文章を読んでいます。また、文法的にも、文を成立させている基本単位は単語(形態素)であり、それらが意味を持ち文法的な機能を担(にな)っています。ですから、この脳内言語辞書も文字単位ではなくて、単語を基礎単位としているはずです。
先ず、普通の辞書のように機械的に単語の“文字を並べて” 見出し項目としているのではなくて、以下のような形式の見出し項目となっていると推測されます。
・辞書の単語見出し項目:この辞書の単語見出し項目は、その単語の文字の並び全体の形態的パターン(=視覚的イメージ)となっているはずです。なぜなら、❶で論じたように、それを“当てはめて” 文や文章を読んでいると考えられるからです。
付け加えておきますと、もう一つの見出し項目として、単語の発声音(その単語の音韻の並び全体)(=聴覚的イメージ)となっている辞書も持っているはずです。そういうものがなければ、スムーズに聞くことも話すこともできないと考えられるからです。
参考までに申しておきますと、脳への外界からの入力のされ方について、視覚情報は必ず視覚野を通して脳内に伝えられます。また、聴覚情報は必ず聴覚野を通して脳内に伝えられる。それを考えると、このアイデアは妥当といえるでしょう。
脳内言語辞書 2)
その辞書には、各単語について、以下のようなことが “書かれている” はずです。
1. その単語の意味やイメージ
2. 各単語の文法的な機能の把握、その統合
我々は、頭を使って、「この語は、名詞で主語である」とか、「動詞である」とか、「形容詞であって、この名詞に係るはず」などと、まったく考えることなく、“ほとんど無意識のうちに”、(それらの単語からなる)文を理解できます。ですから、(普通の)辞書では、各語について、「名詞」、「動詞」、「形容詞」などと、それぞれの品詞名と書いてありますが、脳内辞書では、どんな形式かはわかりませんが、もっともっと実用的な形式で、各語の文法的な機能を書いてあるのでしょう。「書いてある」のではなくて、言わば、その単語そのものとして、その単語の文法的な機能も上記の「意味」やイメージ」の中に一体化して内包しているのでしょう。
3. 文脈的な整合性、文としてのまとまった意味の理解
文を読むと、普通、文脈(前後関係)でもって、単語の適切な意味を特定して、整合性を持つものとして、文全体の意味がわかるわけです(「❶の中の a) 言葉の意味と文脈」 の箇所を参照)から、何らかの形式で、それを可能とする情報も含有されているのでしょう。
・引く必要の無い辞書:さらに、その言語辞書は、(この冒頭でもふれたように)、次のような特性を持っているはずです。つまり、頭で考えることなく、文(単語)を読んだら(あるいは、聞いたら)、おのずとその意味がわかる、言わば、“自動的に” 即座に使えるようになっているはずです。そのために、この脳内言語辞書はひと言でいうと、(引く必要がある普通の辞書とは違って)、「引く必要の無い辞書、文(単語)を読んだら(聞いたら)即座に、上で述べた脳内言語辞書の3)で述べた内容が、わかる辞書」となっているはずです。
脳内言語辞書 4)
人間の辞書(脳内辞書)には、もう一つ、(普通の)辞書にはない特徴があります。
それは、下の図のように意味的関連性にもとづいて配列されていることです。
ほとんどすべての文章は、文を複数つらねて、あるまとまったもの(感情、思想、知識、話題など)を表しています。そこで、ある一つの語が出てくると、それ以降には、その語と意味的に関連した語が出てくる可能性が非常に高くなります。ですから、辞書の項目を意味的関連性に基づいて配列しておくと、次に出てくる語に簡単にアクセスできる可能性が高くなるはずです。そうしておくと、文章を速やかに楽に読めることが期待できます。実際、我々の脳内言語辞書はそのように配列されているようです(上の図)註1
2) 理屈(論理)を上まわる言語能力 (認知機能)
言語能力などの中に、理屈で考えても論理的に考えても、正しい答えが得られるとは限らないものでも、(ある意味、不思議なことですが)、実用上正しい答えを見つけ出して、うまく利用していることが多々あります。そういうものも「脳内言語辞書」の中に含まれているはずです。それどころか、それが、「脳」の本質的な部分かもしれません。そのような例を4つ紹介してみましょう。
a. 助詞の 「は」 と 「が」
日本人のほとんどの人が、助詞の「は」と「が」を正しく使い分けています。しかも、どちらを使うべきかなどと悩むことは滅多にないことでしょう。まず、手始めに、一つクイズを出してみましょう。
A:あなたが先生で、新学年の最初の日に生徒たちが待っている教室に行って挨拶をする場面を考えてみてくださ。そのとき、あなたは、下記のどちらのあいさつをなさるでしょうか?
「私が先生です」、 「私は先生です」、
あなたの答えは、「私が先生です」ではなかったでしょうか。
もうひとつ、考えてみてください。
B:複数の人で会議を始めるところとしましょう。そして、あなたは、その会議のメンバーに自己紹介をするとして、あなたは、上記のどちらのように言われるでしょうか?
おそらく、あなたの答えは、「私は先生です」ではなかったででしょうか。
「あなたの気持ちの中では」:おそらくあなたは、それぞれ直感的に答えられたと思うのですが、少し考えてみますと、A:の場合には生徒たちが新しい先生を待っていることが分かっているわけですから、それが自分であることを伝えるべきだと考えて、「私が」と、言われたことでしょう。反対に、B:の場合には、メンバーたちは私という人物は見てわかっているので、自分が何者であるのかを伝えるべきだと考えて、「私は先生です」と言われたことでしょう。付記しておきますと、この場合、「先生です」でもいいわけですが、その会議には複数のメンバーがいるので、自分が言っていることを明確にするために、「私は」と付け加えたということでしょう。
文法的説明(新情報と旧情報):この「が」と「は」の使い分けについては、前者(A:)では、生徒たちは「先生」であることはわかっていることなので、「私」が、伝えるべき新しい情報なので「が」が使われると、説明されます。それに対して、後者(B:)では、メンバーたちは「私」は見てわかっているので、「私」というのは「旧情報」なので、「私は先生です」と、「は」が使われると、文法的には説明されます。
「が」と「は」の使い分けについては、文法的にはこのように説明されます(ただし、これは一つの例で、その使い分けについては複数のルールによって説明されます)。しかし、貴君がクイズに答えたときには、ほとんど直感的に答えられたのではないでしょうか。そして、「おそらくあなたの気持ちの中では」として、書いた内容について納得していただくけるのではないでしょうか。しかし、文法的説明としたことは、正しいとして納得していただくことはできると思います。しかしながら、我々が挨拶をするとき、あるいは文を書くときにそんなことを意識して、考えて判断しているでしょうか。私には、それよりも「直感的に判断している」というほうが、我々の日常的な言語行動に合致しているように思われます。
以下の表13の文を読んでいただくと、それぞれの文について、たやすく即時的に、正しい文か、意味をなさないおかしな文か判断していただけると思うのですが。いかがでしょうか?
しかしも、以上の例も含めて、あなたは、どのような場合に「は」を使い、どのような場合に「が」を使うのか説明できるででしょうか。おそらく、答えに詰まるのではないでしょうか。「は」と「が」の使い分けについては、上で述べた文法的説明のほかにも、たくさんの本や論文が出版されています(例えば、「象は鼻が長い ―日本文法入門」 (三上章著作集), 1960など)。それだけ多くの学説があります。多くの学説があると言うことは、定説が得られていないということです(直感的に申しましますと、どの学説でも、かなりの割合でうまく説明できるのですが、一方で、どうしても説明がつかない用例が残るようです)。このように、個人的にも、文法学的にも、理論的に説明しきれませんが、みなさんは正しく、ともかく「は」と「が」を正しく使い分けておられます。(理論などとはまだまだ無縁な)小学生でも大して考えることもなく正しく使い分けています。以上のように、理論よりも、我々の日常的な直感のほうが上まわっているように思うのですがいかがなものでしょうか(ただし、理論的にどちらか正しいかを決めることができませんので、ここで正しいというのは、ほとんどの“日本人”が正しいとするほうを正しいとしています。⦅なお、これは、言語学では一般的な方法論です⦆)
b.助動詞 「た」
我々では、これらの例文(下の表の中で青字の文)のどれでも、読んだらすぐ、特段考えることもなくわかります。途中でちょっと止まって考えてみるなどの必要がなく、非常にスムーズにわかります。問題ないですよね。ですから、いちいち考えて読んでいるわけではないのでしょう。なぜか直感的にわかって読んでいると言わざるを得ないのです。少なくとも、論理的にいちいち考えて、(表の中で少し解説したような)その「た」の意味や役割を理解して、その文の意味を理解しているとは到底考えられません。
また、下の表の例文を読んでみてください。問題なくスムーズにわかりますね。その例文の「た」は、a.とc.は軽い命令、b.とd.は、過去に行ったことを示しています。これらを、一見しただけでスムーズに読めると言うことは、「た」にそういう意味があることを知っていることに加えて、文脈との関連性(どういう文脈のとき、どの意味・役割を持つのか)がわかっていなければ不可能です。しかも、それをほとんど即時的に判断できなければ、これらの文の意味をスムーズに、“リアルタイムに”、理解することはできないことでしょう。
コンピュータの場合にも、論理的に考えた従来の方法によるプログラムよりも、AIのディープラーニングの教師あり学習のように、多くの事例を学習させてやった方が、正答率の高い“プログラム ⦅コンピュータがどうやって解いているのか、今ひとつ人間にはわからないのですが⦆ を作ることができます。そのようなAIプログラムの示すパーフォマンスは、おおむねその領域のプロフェッショナルを、少し上まわります。
c. 英文の冠詞の「the」 と 「a」
定冠詞と不定冠詞の使い分けは、日本人が英文を書くとき、大いに悩まされる問題です。英文法の教科書を見ますと、冠詞の使い方についてきちんと説明がしてあります。しかし、それを元に論理的に考えて何とかなるのであればいいのですが、どうしてもわからない場合が出てきます。そのため、多くの日本人は、英語の論文を書く場合に、最後には、ネイティブの校正を仰ぐことになります(現在では日本人の英文の校正を商売としている会社や個人がたくさんあります。)
他方、(当たり前ですが)、ネイティブの人たちは日常的に迷うことなく自然と、「the」 と 「a」を正しく使いわけています。極端な例ですと、我々日本人のそこそこ英文を書いてきた人でも、「the」 と 「a」については、ネイティブの小学生に負けます。彼らは、考えることもなく、スムーズに「the」 とか 「a」を決めてしゃべっています。我々は一つの冠詞のために何十分もかけて一生懸命考えても、ネイティブの小学生に負けてしまうことがあります。それは、ネイティブたちが、理屈、理論を超えて、正しい答えがわかっているためとしか言いようがありません。(もしも、理屈、理論で考えてわかるのであれば、我々日本人の大人がいくら何でも小学生には負けないと思うのですが?)。
子供たちは、6才くらい(小学校入学前)で、一応の(彼らの日常生活で困らないだけの)、音声言語(聞く話す)能力を獲得します。それって、理屈や文法理論や、あるいは論理的に考えることとは、まだ無縁であると考えられます。また、各言語を作り出していった我々の遠いご先祖様も、そのようなこととは無縁だったと考えられます。ただただ、模倣し、自分で発してみて、母親や周囲の人などに認められることや、コミュニケーションができたこと、あるいは、自分の中で理解できて納得できたこと、つまり、そういうフィードバック、“強化”を受けて、獲得されたものでしょう。ですから、そうやって、脳は、理屈や論理に頼らずに、言語能力を獲得、学習してきた、あるいはしているように考えられます。
e. 結 語
ここで述べてきたことからおわかりのように、何かルール(例えば、文法規則)を学べば、正しく読み書きできるようになるというものではなくて、我々の認知の能力はそれを超えていて(ただし、それは今の我々がまだできていないだけで、将来本当に正しいルールが導き出される可能性はありますが)、規則を学べば正しい答えが得られると言うものではなくて(それらの原則、文法規則を知ることは、道しるべとしては、大いに役立ちますが、決して、オールマイティではありません)、多くの事例(読み書きの場合には、多数の文例)を経験する、勉強することで身につけてきたものでしょう。つまり、そうやって脳を鍛える、(神経細胞とそのシナプスからなる)神経回路を脳の中に作っていくしか方法がないのでしょう。そういう意味でも、繰り返し、繰り返しの練習が賢くなるためのほとんど唯一の道です(このことは、後編で述べる「徹底反復練習による勉強方法の重要性」に対して一つの根拠を与えるものです。また、学校教育が長年にわたることの理由の一つともなっているのでしょう)。
ここで一つ道草を申しておきますと、現在の心理生理学的知見によると、新しく作られた神経回路は、夜寝ている間に確固たるものに作り上げられると考えられています。脳は、夜寝ているときに、今日憶えたことを想い出して、その記憶の固定をしていることを示す生理学的証拠が近年いくつか報告されています。ですから、勉強のスローガンとしては、「昼間はよく練習、勉強、夜はしっかり寝ましょう!」。
クイズ:世界中で一番よく休む国、国民はどこでしょうか? 日本同様、あるいはそれ以上に勤勉な国民性と言われている国です。 また、とても優秀な国民とも言われています。ヒント:残念ながら、最近GDPで、日本が抜かれてしまった国です。 考えてみてください。 答え: .
3) “自動的に” に行える認知作業の例
さて、本稿では、“自動的に”という言葉を、キィワードとして使っています。それがどういうものなのか、少しまとめておきます。
“自動的に” をひと言で言うと、「見れば(あるいは、聞けば)、(考える必要などなくて)、即時に、おのずと答えがわかる状態」です。
1) 文章を読むとき(脳内言語辞書)
すでに述べたように、我々は、(自分にとってそれほど難しくない)普通の文章を読んでいるときには、難なく理解していくことができます。それには、次々と出てくる単語の意味が読んだだけで即時にわかり、そしてその文法的機能(主語であるとか、動詞であるとか)もわかるからこそできることです。つまり、次々と出て来る単語の意味などが即時的に、何の努力なしにわかるからできることです。反対側から言うと、「この単語は、確かきっと○○○だったはずだ」、「この単語はこういう意味だ」などといちいち考えていては、文章をスムーズに読むのには、間(ま)に合わないはずです。先に、「脳内言語辞書」のところで、述べたように、「辞書を引くような作業」を一切せずにわかるからできることです。言い換えると、“ほとんど無意識のうちに”わかると言うことでしょう。こういった状態を、本稿では、“自動的に”できている状態と考えています。
2) 基本的計算
もう少し “自動的に”と言うことを実感していただくために、計算の基本となる計算を、見ていただきたいと思います。それらは下位の認知技能の最(さい)たるものです。それらは、小学生低学年時の反復練習によってほとんど“自動的に”答えられるようになっています。つまり、問題を見れば答えがわかるという能力を我々はもっているようです。以下に、例として、「九九」の計算問題と一桁の足し算の一部をあげておきます。皆様は、それを見れば、考える必要などまったなしに、直感的に即座に答えがわかるのではないでしょうか。もしも、一桁の計算に考えたり、てこずっていては、本当の計算(複数桁の計算)は不可能です。(現在では、「電卓があるから大丈夫」と言われそうですが?)。
注意をしておきますと、“自動的にできる計算”というのは、桁上がりなどが必要となる2桁以上の計算には当てはまらないようです。 ―無論、その過程の中では、“自動的な”、ここで述べるような1桁の計算が、大活躍しているのですが― 。そろばんの上級者では、ものすごく高速で多数桁の計算ができます。すごいです。しかし、その人の頭の中では、超高速で数字の操作を行っているはずです。それが証拠に、そのような頭の中での計算練程をまったく含まない、電卓計算では、それを長いあいだ使用しても、計算がうまくなっていくことがありません。(キィを素早くたたく操作は向上しますが)。つまり、そろばんの上級者でも頭の中で数字の操作をしているのでしょう。自動的に答えがわかるわけではないようです。そこで、2桁以上の計算は、ここで述べている自動的には該当しないものだと考えられます。このことは、❹で述べる公文式や徹底反復学習による勉強方法の限界を考えるときに、重要なポイントと考えられます。
最後に、ほんのご参考までに、1桁同士の計算問題をあげておきます。
ひと言:「百ます計算」には、賛成できない
このような下位の認知機能について練習するときには、容易にそれだけに集中できる状況を設定すべきです。たとえば、テニスのサーブの練習をする場合に、ほかのことには何の注意向ける必要などなくて、練習したい側面だけに集中できるようにするのが、良い練習方法です。「百ます計算」のプリントには、たくさんの数字が縦と横に書いてあって、今どの数字と、どの数字の計算をしようとしているのか、それらの数字に意図的に注意を集中して、さらに、多数の「ます」の中のどこに答えを書くべきかにも、意図的に注意しなければならない。上で述べたことからして、このような、計算とまったく関係の無いことへの注意は可能な限り排除して行うべきである。ここに記載した計算問題の様式は、そういうことはすべて排除して、一つ一つの計算だけに集中できるようなレイアウトにしてある。そういうふうにすべきであると、私は考えている。
さらに、「百ます計算」のプリントでは、たくさんの数字が縦と横に書いてありますが、それらはなまじ同じ数字という刺激であるが故に、今、計算しようとしている数字に対して強い邪魔もの(distracter)として干渉してくる。(特に、視力の悪い児童には負荷が大きい)。こういう点からも、「百ます計算」には、賛成できない。また、本稿の全体を通じているコンセプトは、「学ぶ人、あるいは考えようとする者にとって、肝心なこと(当人のその時点での学ぼうとしている、あるいは考えようとしている事柄)に対して、(ほかのことに注意を奪われたり、そがれたりすることなく)、当人の能力のすべてをそれに使えるようにすること」である。この点からしても、「百ます計算」は、いい方法ではありません。
もうひと言:勉強してもらう方法
「水辺に馬を連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。 You can take a horse to the water, but you can’t make him drink.」 というイギリスのことわざがあります。 このことわざは、本人が気が進まないのに、無理矢理させようとしても、させることはできないという意味で使われます。
しかしながら、馬を何もせずに好きにさせておいた場合と、水辺に連れて行った場合とで、どちらが水を飲む可能性が高いでしょうか? そう考えると、後者のほうが何倍も高いと思いませんか。勉強の場合も、その面に注目すべきだと思います。
たとえば、子供を(彼の好きなゲームやマンガ本のある)自身の部屋に置いておいた場合と、(半強制的にでも教室)に連れてきた場合とでは、彼はどちらのほうが勉強がしやすでしょうか? 明らかでしょう。大人でも、誘惑の真ん中にあって、勤勉しようとするのはとても難しいことです。
学校において自習をしてもらおうとする場合には、実際的には、放課後の時間などに、「自習の時間」として、保証してあげるのがいいでしょう。また、ひとりではなく多くの生徒が一緒のほうがいいでしょう。また、(監視役の)教師が一緒にいて、生徒の味方になって手助けをする、補佐をするという形式にするのがいいことでしょう。具体的には、(担任の先生ではなくて、その生徒たちとってもっと身近な助手的な方の方が、生徒が気楽になれていいと思いますが)、その担当教師はただそこにいると言うだけではなくて、個別的に生徒からの質問を受け付けるくらいのサービスをするのがいいでしょう。
また、褒めること、“現物で強化する”ことも効果的でしょう。方法は色々とあると思いますが、たとえば、(家庭との連携が必要ですが)、児童の場合、1回出席すると、10点のカードをもらえる。あるいは、可能であれば、短いテストを最初にして、いい点が取れた児童に、そのカードを1枚あげる。そして、それが50点貯まるとアイスクリーム券に交換してあげる。100点ためると、(夕食のメニューを自身で決められる)夕食券、あるいは、その子の好物であるカレー券をあげるなど。また、適切な質問をしてくると、カードを1枚あげる。などの実利的な報酬をあげることもいいことでしょう(このような方法論は、トークンエコノミーという)。(でも、大学生ではこれは難しいかもしれませんね。学食での一番高いメニューの食事券なら有効かもしれませんが )。
註1付け加えておきますと、脳内言語辞書の内容が、意味的関連性に基づいて並べられているとの仮説を裏付ける実験は、色々と存在し、ほぼ意味的プライミング効果として、まとめられています。しかし、それをここで体験していただくのは難しいようですが、(うまくいくかどうか、保証の限りではないのですが)、一つ試してみたいと存じます。
下の表11(すべて音楽に関係する言葉です)と、表12(意味的にランダムな順で並んでいます)とを読んでいただきますと、表11のほうが表12よりも比較的ムーズに穴埋めができるのではないでしょうか? いかがでしょうか?