学校教育はなぜ必要か❶  -認知心理学からの試案-

                              2024.5.26.改訂)

目的:なぜ、学校教育が、必要なのでしょうか。人々が、日常生活で使っているほとんどの能力、知識は、特別 学校教育 を受けなくても、習得可能なもののように思われます。

しかし、確実なこととして、文字言語(読み書き)の習得には、どんな形であるにせよ、 『学校教育』 が必要です。この論考の目的は、読み書きの習得のために、なぜ、何年(6年+3年+3年)にもわたる学校教育が必要なのかを明らかにすることです。そして、本稿の考察に基づく『教育/勉強方法』については、最後ので述べたいと思います。

 

T. 言語習得、学習

a) 音声言語(聞く、話す)の習得

確かに、音声言語能力(聞く、話す)は、教育なしに習得が可能です。教育制度をまったく持たない民族(例:狩猟採集民)でも、音声言語を持ち、使用しています。さらには、ほとんどの子供が、6才くらいで(学校教育以前に)、日常生活に必要な音声言語によるコミュニケーション(話す、聞く)ができるようになります。

 

・音声言語の習得の準備

まず、赤ん坊は、声を出せるようになるまでは、言葉について何も学習していないように思われがちです。しかし、生まれる前から、音声についての学習を始めています。たとえば、胎児でも生まれた直後の新生児でも、(母国語の)母音の区別ができていることが、特殊な脳波を用いた研究で明らかにされています1)。ですから、生まれたときにはすでに母音の区別はできているようです。また、近年の心理学的研究によって、生後約6ヶ月で、単語音声についても学習を始めていることがわかっています2)。以上のように、まだ何もしゃべることのできない時期(生後9ヵ月までくらい)に、言語音−音韻−、および単語音声について学習を始めていることがわかっています。

 

・新生児模倣

実は、ヒトは、模倣(まね)をするのが、非常に得意な動物です。生後4日目の新生児でも、目の前にいる口を開けている人のまねをして、口を開けます3。しかも、その人が、赤ん坊が口を開けたのを見て口を長く開けてやりますと、赤ん坊もその様子を見て長く口を開けます。つまり、単にまねができるというのではなくて、大人との間で互いに影響しあいながら模倣をします。新生児によるこのような模倣は、文化や民族によらず人類共通に認められるようです。

 


 

 

・大人との積極的な相互作用

赤ん坊は、初めて声が出るようになると、周囲の人(多くは、母親)の反応や、その手助けによって、本当の意味での言葉の習得、つまりその音声単語の意味を学習していきます(上の図)。このようなことができるのは、赤ん坊が、お母さんや周囲の人の声を聞いてまねして、そして、その赤ん坊の声を聞いた人がまたしゃべってくれるのを再度お手本にして、またまねをしてというように、繰り返していくからです。このように、赤ん坊は、周囲の人との関わり、相互作用によって、言語音声とその意味を習得していきます。

 

上の図の時期よりももう少し大きくなると(3、4才くらい)、幼児は、自分が興味を持っているものを指でさして、大人の注意をそれに向けさせて、その名前を教えてもらおうとします。そして、その名前を聞いて、まねして声を出します。そこで終わってしまう場合もありますが、それを聞いた大人が、またその名前を繰りかえしてやると、幼児はまたそれを聞いてまねをして、と‥‥‥。このような、大人との相互作用によって、幼児は、多くの言葉(音声単語)を習得していきます。

 

以上のように相手を見ながら模倣ができ、相互作用ができる能力が、ヒトの音声言語習得を可能にし、さらには、種々の基礎的な社会的行動(たとえば、あいさつの動作や食事の仕方など)の習得を可能にしているのでしょう。この模倣能力と、相手と互いに影響し合う相互作用能力とが、人間をほかの霊長類から区別させる言語、文化を実現させたのでしょう。

 

・獲得単語数

2〜3才頃までは、使える言葉の数はごくわずかですが、それから先、爆発的にその数を増やしていきます。発声も上達して、6才くらいで、大人に近い発声ができるようになります。そして、高校3年生の終了時点で、約6万語(この場合、固有名詞などは含まれていない)の単語を知っていると言われています。この6万語という数字は、それを18才までに覚えるには、休みなく、毎日ほぼ10単語を覚えることが必要です(単純計算で、110単語×365日×18年=65,700語)。(ただし、6万語というのは、英語圏の調査結果です。後述するように、日本人の場合には、もっと多くの単語を知っているようです)。

 

b)文字言語の発明、教育

文字の発明

周知のように、文字が発明されたのは、おおむね紀元前3500年くらいのメソポタミアや古代エジプト、インド、中国などでした。ですから、人類が字を書けるようになったのも、わずか紀元前3500年くらい前です(世代でいうと、わずか300世代弱くらい前です)。日本では、100年前ですから、わずか80世代くらい前です。そして、多くの我々庶民のご先祖様が、読み書きを修得できたのは、寺子屋が広まった江戸時代中頃か、あるいは、義務教育の始まった明治の始め頃(約150年前)です。ですから、このような短い世代進行の間に、脳が進化したなどとはとうてい考えられません。そのため、文字を読み書きする能力というのは、現在の我々の脳にとっても非常に新しい仕事です。

 

文字が発明された紀元前のメソポタミアや古代エジプト、インド、中国などのその文明の始まりとほぼ同時期に、“教育”が始められました。そして、全世界で、封建制度とともに、おおむね、国を統治する一部の支配層の子弟にだけ、文字の読み書きを中心にした“教育”が行われてきました(封建制度:身分と、読み書きなどの知的能力の世襲制)。

たとえば、日本の平安時代には、(現在の我々をも魅了するような)女流文学が生み出され、多くの日本人が文字を読めたと思われるかもしれません。しかし、それは大きな誤解です。その時代に、文字が読めたのは、何らかの意味での教育を受けることのできた特権的な身分の人たち(貴族や僧侶など)だけでした。そうでない大半の人々は、読み書きはできませんでした。

 

日本では、江戸時代の中頃になりますと、庶民層も(都市部だけではなく、農村部なども含めて)、教育に熱心で、読み書きそろばんの習得のために、子ども達を寺子屋(手習い指南所などとも呼ばれた)という塾(学校)に通わせました。そのため、多数の人が、読み書きができるようになりました。(おそらくは、この識字率の高さが、明治維新を可能にしたのでしょう。)

 


 

 

以上のように、文字言語の習得には、教育(学校教育)が必須でした。さらに、今日、大多数の国で、6年程度の初等教育(primary schoolと、6年程度の中等教育(secondary school)が実施されています。そして、多くの国で、そのうちのほぼ9年間が、義務教育となっています。では、どうして、このような長期にわたる学校教育が必要とされるのでしょうか。以下では、この点について、認知心理学の立場から、考えてみたいと思います。

 

付記しておきますと、学校教育には2重のコストがかかります。一つは、もうある程度の労働が可能である少年少女がまだ生産活動に加わらないこと。また、教育のために、ほぼ専従の教員(直接的な生産に寄与しない人々)の労働を必要とすること。なぜ、このようなとても大きなコストを必要とする学校教育という社会制度を、世界中のほとんどの国で採用しているのでしょうか。考えてみると、不思議なことです。

 


 

U. 文字言語(読み書き)

 

a) 単語と表記  

表1の言葉を読んでみて下さい。ちょっと変な感じがしませんか。しかし、表2のほうを読んでいただくと、ずっと簡単に読めるのではないでしょうか。いかがでしょうか?

 


 


 

 

表1と表2は、文字(表記)は異なりますが、まったく同じ単語です。表1は、通常、カタカナで書く単語(外来語)を、通常は使われないひらがなで書いてあります。それに対して、表2は、通常使われるカタカナで書いてあります。もしも、我々が、言葉を読むときに、文字を読んでいるのであれば、ひらがなも、カタカナもよく知っているわけですから、表1と2とで、少しも差がないはずです。しかし、表2のほうが、ずっと楽に、簡単に読めますね。しかも、頼みもしないのに、その単語の意味やそのイメージも、読むと同時に浮かんで来るのではないでしょうか。

 

また、表35)を読んで見てください。そうすると、無論、読むことはできますが、また何か変な感じがしませんか。それに対して、表4を読んでみていただくと、非常にスムーズに、何の戸惑いもなく、読めるのではないでしょうか。

 


 


 

 

この表3と表4は、よく似た言葉を書いてありますが、書いてある文字(表記)が異なります。表3は、普通、ひらがなで書かれることが多い単語を、カタカナで書いてあります。それに対して、表4は、よく使われるひらがなで書いてあります。これらの例でも、(通常よく見かける文字で書かいてある)表4のほうが、表3よりずっと読みやすいですね。

 

それが証拠に、表3をひらがなで書き直した表5を読んでいただくと、ずっと読みやすくなりましたね。もしも、我々が、一つ一つの文字を読んで単語を読んでいるのであれば、前にも述べたように、ひらがなもカタカナもよく知っているわけですから、表1と2とで、また、表3と表5とで差がないはずです。しかし、実際には、表2と表5のほうがずっと読みやすいですね。どうして何でしょうか?

 


 

 

もう一つ、表65)読んでみて下さい。今度は、漢字の熟語(「絵の具」は例外)ですが、難なく読めますね。(読者諸氏の中には、「小学生の漢字テストでもあるまいに!」と、不快に思われる方がおられるかもしれませんが、ご容赦下さい)。特に、表6の単語を声に出さずに読むようにします(黙読)と、非常にすばやく読むことができます。

 


 

 

次に、表7を読んでみてください。意味も何も考えないようにして、ともかく速く読もうと思うと、表6よりも速く読めるかもしれません。しかし、普通に読もうとすると、何だか変な感じがして、ちょっとつっかえるような単語があったりするのではないでしょうか? また、その単語の意味やイメージが何だかわかりにくいと感じられるのではないでしょうか。

 


 

 

この表7は、表6と同じ言葉を、ひらがなあるいはカタカナで書いてあります。この表7のほうが、表6よりも違和感があるとはどういうことでしょうか。文字という観点からは、ひらがなやカタカナのほうが漢字よりもよほど読みやすいはずです。ですから、漢字で書いてある表6よりも、この表7のほうが、読みにくくて、何だかわかりにくいというのは、 どういうことなのでしょうか?

 

b) 単語の文字並び全体の形態的パターン(=視覚的イメージ)

我々は、文字を読んでいるのでしょうか?」、などとたずねると 「何をばかなことを!」と、思われるかもしれません。でも、以上から、もうおわかりのように、本当でしょうか?

 

今、見てきたように、通常はカタカナで表記される単語(表2)、通常ひらがなで表記される単語、通常漢字で表記される単語は、そうやって表記されている表4,表6のほうが、そうでない表1,表3、表7よりも、ずいぶん読みやすかったですね。極端に言うと、前者のほうは、“勝手に、おのずと読めるような” 気がしませんでしたか。表記文字の違いだけで、どうしてこんなに差がでるのでしょうか?

 

その理由として、我々が、それぞれの単語について、その単語の文字並びの全体の形態(かたち)を一つのまとまったパターンにして見ているからではないでしょうか。つまり我々は、一つずつの文字を見ているのではなくて、単語全体をひとまとまりとして見ているからではないでしょうか7)。言い換えると、我々は、書かれた言葉(単独の単語、文、文章)を読むとき、一つ一つの文字単位ではなくて、むしろ、単語単位で読んでいるのではないでしょうか? 

 

つまり、我々はそれぞれの文字の形態(かたち)を学習しているように、ある単語の文字列全体の形態を学習していて、それを基本単位(基本要素)として、文や文章を読んでいるのではないでしょうか。イメージ的には、熟語を思い浮かべていただくとわかりやすいかもしれません。たとえば、「英語」、「単語」、「学校」、「教育」、など、これらは、口に出して読まなくても、そのままで“見ただけで”、認識できて、その意味もわかりますね。それに対して、同じ漢字であっても、「単育」、「校英」、「学語」、「語教」は、読めますが、とっつきが悪く、何だか不自然な感じがします。強いて言うと、前者は何だかフレンドリーな感じがする一方、後者は何だか不穏当な感じを受けるのではないでしょうか?

 

また、英語のことを考えていただくと、英文は単語ごとに分かち書きをしますので、「言葉は単語単位で読んでいるのだ」ということに納得していただきやすいかもしれません。日本語は分かち書きをしませんが、かな漢字、交り文となっているので、単語単位で読むことができるのでしょう。そういう文章の中で、上でもふれたように、漢字熟語は明確にひとまとまりであること、単語であることを主張しているような気さえします。

 

たとえば、人の顔を見れば、顔であるのかわります。あるいは、イヌを見れば、イヌだとわかります。人の顔(二つの目、一つの鼻、一つの口、二つの眉、など)やイヌの姿(一つの頭、一つの胴、2本の前肢、2本の後肢、など)は、複数のパーツを有していて、それらのパーツ間の相対的な大きさとそれらの相対的位置関係によって構成されています。考えてみれば、各文字の形態も同じことではないでしょうか。さらに、各単語も、(文字よりもかなり複雑にはなりますが)、我々は、文字というパーツの配置によって構成された一つのパターンとして見ることができるのではないでしょうか(先の熟語の例を想い出してみてください)。

 

各単語がひとまとまりの形態として認識されているということについて、もう少し見ていきますと、表8と表9とを比べてみてください。「小川」 「小・川」 も、“小川” だとはわかりますが、表8の「小川」は一つのまとまったパターンとして、直感的にわかるでしょう。しかし、表9の「小・川」もわかはしますが、その間の中点に邪魔されて、一瞬間(ま)があくというか、「小」という文字、「川」という文字を認識して、「小川」と認識されるという感じではないでしょうか? つまり、表8の単語のほうが、まとまったもの、あるいは、塊(かたまり)として、何か直接目に飛び込んでくるように感じられるのではないでしょうか?

 


 


 

 

また、以下の表10を読んでみてください。表2(再録)を参照していただきますと、「バイオリン」はスムーズに読めますが、「バイ・オ・リ・ン」は、何か、中点が邪魔をして、少し読みにくいようです。表2の単語は、そのまますっと読んで、その意味もわかるし、そのイメージも何だか、“わいてくる”のではないでしょうか。ところが、表10の単語では、そうはいかないのではないでしょうか。つまり、表10では、一つ一つの文字を読んで、(場合によっては、それらの文字の音―音韻―を一つずつ口に出してみて)、そのあとで、「バイオリン」とわかるという感じではないでしょうか。このような差が生じるのは、先にも指摘しましたように、我々が、各単語の全体的形態(視覚的パターン)を知っていて、それを利用して各単語を読んでいるからではないでしょうか?

 


 


 

 

繰り返しにはなりますが、よく出てくる(よく見る)単語では、例えば「学」+「校」という、2つの漢字を並べたものとしてではなくて、「学校」という一つのパターンとして見ているのではないでしょうか? もう一つ例を述べますと、「屋」という字、「上」という字を読んでいるのではなくて、言わば「屋上」という “文字” を読んでいるのではないでしょうか。要するに、我々は、文字を一つずつ読んでいるのではなくて、各単語全体を単位として読んでいるのではないでしょうか。さらに、そのおかげで、文章をスムーズにすばやく読むことができるのではないでしょうか。

 

・単語レベルで読んでいることを示すもう一つの証拠(英語の例)

の英語を見た場合、難なく、「THE  CAT と読むことができます。実は、これは少し不思議なことなのです。この中の、「THE」と、「CAT」の真ん中の文字はまったく同じ形です。そのため、これらの2文字をいくらながめてみても、「H」であるか、「A」であるかは、わからないはずです。ところが、「THE」と、「CAT」と、難なく読むことができます。それは、「THE」という単語、「CAT」という単語というように、単語ごとに、その全体的形態を知っていて、それを使って読んでいるからでしょう(それに加えて、「the cat」と両単語が続くことも知っていて、それも使っています)。我々の英語力でも、このような初歩的な単語であれば、アルファベットを一つずつ読んでいるのではなくて、その単語の綴り全体を一つのパターンとして読んでいるのです。

 


 

 

このように、英語の場合でも、各単語文字列の形態的パターンを知っていて、そのパターンを使って読んでいます。例えば、英文をそれなりのスピードで読むためには、単語の綴りの文字をいちいち意識しながら読んでいては、とてもじゃないですが無理です。アルファベットの綴りの1文字ずつを認識して各単語を読むのではなくて、その単語綴りの全体の形態を直接認識して、読んでいるのでしょう。そのおかげで、スムーズに、すばやく読むことができです。たとえば、「This is a pen.」を、「This」、「is」、「a pen」それぞれを視覚的なひとまとまりのパターンとして認識して、「ディス イズ アペン」と読んでいるのです。このように、 普通に、スムーズに 読むには、単語全体の形態的パターンを習得していて、それを使って読む必要があります。そのためには、相当数の英語単語の形態的パターンを習得していることが必要です(無論、非常に長い単語やほとんど見たことのない単語では、そうはいかないですが)。ですから、英語を学ぶには、単語綴り全体の形態的パターンを習得していくが必要不可欠です。

 


 

 

・漢字熟語を読むのに要する時間

最後に単語をひとまとめのパターンとして読んでいることを示す別のデータに、触れておきます。二つの熟語(電話、先生)を読んでみて下さい。

 


 

 

どちらの熟語もすばやく読めますね。もしも、その漢字ごとに読んでいるのであれば、「電話」(合計26画)、「先生」(合計11画)ですから、「電話」のほうが倍以上画数が多くて、複雑です。そのため、「電話」のほうが時間がかかりそうなものです。しかし、読者諸氏であれば、どちらもすばやく読めますね。上の図のように、日本人大学生では、画数の少ない熟語と多い熟語とで差がありません。ところが、日本語を学習中の外国人では、(学習期間の長いグループのほうが少し速いですが、両グループとも日本人よりもすごく長い時間がかかっていますが)、画数の少ない熟語よりも、多い熟語で時間が200ミリ秒ほど長くかかっています。ということは、日本人の我々では、漢字の画数などに関係なく、熟語をひとまとまりのパターンとして認識しているからこそ、画数の多少で差が無いと考えられます。それは、長い学校教育を通して、日本語を読んできたことによって、このようなパターン認識が可能になっているのでしょう。(申し訳ありません。このデータの出典が現在不明です。すみません。でも、貴重なデータなので掲載させていただきました。)

 

(後述する“習熟”という観点から、追記しておきますと、習熟すると言うことは、非常に速く読むことを可能にしてくれます。外国人では、2,0001,200ミリ秒要していますが、日本人大学生では、わずか700ミリ秒くらいで読んでいます。この差は、“習熟”の成果です)。

 

c) 単語の形態パターンの習得

文字(ひらがなやカタカナ、漢字)の学習は、小学校以前から始まりますが、もしも、一つずつの文字を読むことによって、言葉や文章が読めるのであれば、読むことの学習の大半は、いくら漢字の数が多いと言っても、中学生くらいでかなり終わってしまうのではないでしょうか。しかし、今まで述べてきたように、我々は、文字を一つずつ読んでいるのではなくて、単語単位で、つまり、頭の中に持っている単語文字列の形態的パターンを駆使して、文や文章を読んでいます。文字の数は、漢字の数がいくら多いといっても有限ですが、単語の数は膨大です。ですから、その形態パターンの習得には、長い期間が必要なのでしょう。

 

・日本人成人が知っている単語の数

 


 

 

14年間の朝日新聞(19851998年)の紙面に出てきた単語の数を調べたデータがあります6)。それによりますと、5回以上出現した単語が341,771語あったとされています。むろんそれらの単語を我々がすべて知っているわけではありませんが、上の図を見て下さい。この図に見られるように、それらの単語の中で10回未満しか出現していない単語(5〜9回出現)が、6割くらいあります(約20万語、58%)。1年間の新聞に9回以下しか出てこない単語でも、非常に珍しい言葉ですが、それが14年間で9回以下というと、恐ろしく珍しい言葉です。しかしながら、全単語の6割くらいがそのような単語ですから、もしも、それらの単語のかなりを知っていなければ、新聞をスムーズには読むことができないはずです。ところが、我々成人ですと、新聞をほとんどつまることなくスムーズに読むことができます。辞書はまず不要です。また、出現回数1〜4の単語もかなりあると考えられます(データはない)が、我々はそれらの語の幾ばくかは知っているはずです。

 

これらの点から考えますと、ほとんどの人が高校の卒業時点でほとんどスムーズに新聞を読むことができるので、日本人成人が知っている単語の数は、(難しいところではありますが)、少なくとも、10万語くらいあるのではと、推測されます。ですから、我々(日本人の成人)は、おそらく10万語くらいの語彙(単語)の文字列の形態的パターンと、その意味を記した辞書を頭の中に持っているのでしょう。

 

d) 単語の形態についての脳内辞

・単語を見ただけで(頭を使うまでもなく)、わかる

しかも、このような単語文字列の形態的パターンは見たとき即座に認識できるものでなければ、役に立ちません。考えてから、この単語は、「コンピュータ」というのでは、使いものになりません。我々成人では、すでに述べたように、多くの文章(例えば、新聞記事)をスムーズに読むことができるわけですから、文章を読んでいるときに、各文字単語を見たほぼその瞬間に(頭で考える必要なしに)、その形態的パターンを認識できているはずです。つまり、ほとんど “自動的に”、大半の単語を認識できているはずです。(後述する「W.習熟(自動化)の大切さ)を参照)。

 

膨大な数の単語の形態的パターンについて“習熟する”には、おそらく、小学校の6年間ではとても足りなくて、中学、高校と長い年月の勉強がきっと必要とされるのでしょう。しかも、それによって、次に述べるように、黙読が可能になると考えられます。

 


 

 

 

ひと言:もしも、我々が単語の形態的パターンに焦点を当てて文章を読んでいるとすれば、縦書きと横書きでは、そのパターが異なるので、可能な限り文章は、横書きにするほうがいいと考えられます。ですから、音読して日本語のきれいな音韻イメージに注目して欲しい場合(文芸作品など)を除いて、横書きにすべきだと考えられます。


 

e) 表記と意味

単語の形態的パターンと、その単語の意味やイメージとの対応

単語を知っているということは、もちろんその意味もわかっていなければなりません。すでに述べたように、単語の数は膨大ですから、本稿の最初でふれたように、単語とその意味は乳幼児の頃から始めて、長い期間をかけて習得するのでしょう。

各単語が表す意味やイメージとの対応付けに関しても、先に見ていただいたいくつかの表(表1、表3、表5、表6)の単語を見られたときに、すでに感じられたかもしれませんが、表記の仕方と、その単語の意味、特にそのイメージとの結びつきが、適切な表記の場合(「ラジオ、バイオリン、うどん、うちわ、いとこ、空地、雨戸」、など)のほうが、不適切な表記の場合(「らじお、ばいおりん、ウドンウチワ、イトコ、あきち、あまど」、など)よりも、かなり良いと感じられたのではないでしょうか。つまり、適切な表記の単語のほうが、不適切な表記の単語よりも、そのイメージがずっとわかりやすかったのではないでしょうか。以下の例でそれを確かめてみましょう。

 

ある言葉とそれが表すもののイラストとを一緒に見ますと、適切な表記で書いてある左側の単語(テレビ、コンピュータ)は、そのイラストにぴったり合っているように感じられるのではないでしょうか。それに対して、見慣れない表記で書いてある右側の単語(てれび、こんぴゅーた)では、何かしっくりこない感じがするのではないでしょうか。以下の例についても、同様ではないでしょうか。

 


 

 


 


 


 


 

 

それは、我々が、単語の形態パターンと、その単語のイメージとを結びつけて憶えているから、そう感じるのではないでしょうか。つまり、我々は、各単語について、その文字列の形態パターンを覚えているだけではなくて、その形態パターンとその単語のイメージとを結びつけて憶えているのではないでしょうか。(ただし、すべての言葉が具象的なイメージと結びついているわけではないですが、それでも、具象名詞はたくさん存在し、具象名詞にとってそのイメージは命です。)

 

f) 音読と黙読

上で述べたように、各単語の形態的パターンと、その単語が示すもののイメージとを結びつけて習得しておくと、いったい、どんないいことがあるのでしょうか? 以下で述べるように、それは、黙読の助けになるという点にあると思われます。

 

前のページなどのイラストを見られたときに、「テレビ、コンピュータ、うどん、野球、雨戸」は、声に出して読まなくても、すぐにその意味がわかって、それぞれのイラスト(イメージ)と、難なく結びついたのではないでしょうか。つまり、読むこと、その単語の意味を理解することが容易だったのではないでしょうか。それに対して、「てれび、こんぴゅーた、ウドン、やきゅう、あまど」は、黙読はできなくて、(本当に声を出してしまうかどうかは別にして)、頭の中で声にしてみて始めて(言い換えると、音声のイメージ<音韻イメージ>に直してみて)、はじめてその言葉の意味をとらえることができたのではないでしょうか。

 

このことは、多くの方が、表1から表7を読まれたときにすでに感じておられたと思います。適切な表記の単語(表2、表4、表5、表6)を読まれたときには、何となくストレートにその言葉の意味がわかったのではないでしょうか。それに対して、不適切な表記の単語(表1,表3,表7)を読まれたときには、何かもどかしさを感じて、頭の中で、各文字をいちいち音のイメージ(音韻)に変換してからしか、その単語の意味がわからなかったのではないでしょうか。

 

つまり、ひと言でいうと、適切な表記の単語のほうが、黙読がしやすいのではないでしょうか。我々成人では、単語の形態的パターンと、そのもののイメージとの対応付けがよくできており、両者を対応付けた辞書(脳内辞書)を使うことによって、黙読をしているのではないでしょうか。

 

・黙読には、相当量の学習が必要

先に明治時代の多くの人は文字が読めるようになっていたと申しましたが、ほとんどの人は、たとえば新聞を読む場合にも、いちいち声に出して読んでいました。たとえば、寺子屋でも、手本の音読を中心に教えていました。つまり、それらの時代の人々は、黙読が難しく、ほとんど音読をしていました。おそらく黙読ができるようになるには、印刷技術の普及が不可欠だったのでしょう。

 

声に出して読むことと黙読では大差がないように思われるかもしれませんが、大きく違います。まず、読むスピードが全然違います。たとえば、声に出して読むことしかできなければ、新聞を読む場合、いちいち見出しを声に出して読まなければ、どの記事を読み、読まないかを決めることができません。さらに、その読もうとした記事もそれぞれの文字を声に出して読むわけですから、それにもまた時間がかかるはずです。我々では、ざっとそのページを見れば、どの記事を読もうかは、すぐに分かります。それがまさに黙読の力です。また、各記事も黙読で読めるわけですから、音読とは、スピード、所要時間が違います。特に、読むスピードの違いは非常に大きなものでしょう。たとえば、高校生までに習ってきたすべての教科書や参考書を音読でしか読めないとすれば、とても、教科書などすべてを学ぶのは、不可能ではと、考えさせられます。

 

低学年の小学生:たとえば、小学校の1年生(あるいは幼稚園生)では、まず一字一字を声に出して読み始めます。そして、そのうちに絵本や国語の教科書をスムーズに音読できるようになります。やがて、一見声を出さずに読めるようになりますが、まだ、本当の意味での黙読はできません。たとえば、小学校の低学年生にガムを噛みながら教科書を読んでもらうと、なかなか難しくなってしまいます。中には、ほとんど読めなくなってしまう児童も出てきます。つまり、小学校の中学年くらいまでは、声を出さずに読んでいる場合にも、実際には、(あたかも発声しているように)口を少し動かしながら,読んでいるのです。(もっと正確に申しますと、運動性の言語野である(大脳皮質の)ブローカ野(ほとんどの人では、左半球にあります)を使いながら、読んでいるのでしょう ―研究がそこまで進んでいるわけではありませんが、我々成人では、実際に口を動かすことのない、ブローカ野の使い方をマスターしているのかもしれません―。

 


 

 

ここまでで述べてきたことをまとめておきますと、我々は、(ひらがなや、カタカナ、漢字の)文字の形態を習得しているだけではなくて、(膨大な数となる)各単語の形態的パターンをも習得していること。さらに、それらの単語の形態的パターンと、そのもののイメージとの対応も習得していること。そのおかげで、黙読が可能となっていること。

 

そのために、それらを習得して、黙読が可能となるためには、長期間(612年)にわたる教育が必要であると推察されます。そして、日本語の単語の数の膨大さを考えると、新聞をほぼとどこうりなく読むためには、高校生くらいのまでの(あるいは学校に変わる)勉強・教育が必要だと考えられます。

 

 


 

V. 言葉の意味

しかしながら、読み書きの能力の獲得のために、長期間の教育、勉強を必要とする理由が、まだあるようです。

 

a) 言葉の意味と文脈

言葉が持つ複数の意味

多くの言葉(単語)は、意味は一つです。でもその一方で、複数の意味を持つ言葉(単語)もたくさんあります。以下、いくつかの例をあげてみます。

例1. 下記の2文の「新米」は、まったく別の意味です。

a) 私は新米なので、車庫入れに自信がありません。

b) 私は新米で炊いたご飯が大好きです。

c) 私は、新米の販売員です。

a)は初心者、b)は本当の米、今年収穫された米という意味です。c)は曖昧で、実際にありえる可能性を考えると、初心者という意味でしょう。しかし、もう少し前後がないと、断定はできません。

 

例2. 「座る」という言葉も、下記の例文のように複数の意味をもっています。

a) はし職人というのは、座ってする仕事です。

b) 後任のポストに座る。

c) 彼は、会長の席に座っている。

d) 横綱白鵬は、東の横綱にどっかと座っている。

e) 赤ちゃんの首が座るようになった。

h) 彼は肝が座った人だ。

a)は本来の意味での「座る」。 b)は地位につく、あるいはc), d)では長くついている。e)首が強くなってしっかりした。f)「肝が据わる」の成句。(ただし、「座る、据わる」と書き分けられる場合があります。)

 

例3. 「走る」という言葉も、下記のように複数の意味をもっています。

a) 人が走る。

b) 電車が走る。

c) クルマを走らせる。

d) すらすらと筆が走る。

e) 北海道にも新幹線が走った。

f) 織田方に走った裏切り者。

a)本来の意味での「走る」。 b),c)は、かなりのスピードでかなりの距離を移動する、d)は文章を止まることなくすらすら書く。e)は新設された。f)は逃げる、逃亡する。と、いう意味でしょう。

 

例4. 下記の文章の中の「ミッション」という言葉も、複数の意味で使われています。

近頃よく耳にする「ミッション」という言葉について考えてみますと、ミッションは、本来は伝えるという意味なので、「あなたのクルマのミッションはオートマですか」、これが本来の使い方です。また、キリスト教を伝道することもミッションと言います(例:ミッションスクール)。それは、キリスト教などの一神教では、その神の教えを伝え、広めること(ミッション)が、信者としての最大の使命だからです(唯一神であれば、当然、すべての人々がその神を信じるべきであると考えるからです)。そのために、この観点から、ミッションと言う言葉は神から与えられた使命、天職などの意味でも使われます。

ここでは、単なる言葉としての「ミッション」。伝える、伝える機械。伝道、天命、使命という意味で使われています。

 

以上のように、a)多くの言葉(単語)は複数の意味を持っている。

そして、b)その言葉のどの特定の意味かは、その文脈(前後関係)によって決まる。

皆様がこれらの例文を問題なく理解されたように、我々は、その文脈にふさわしいその言葉の特定の意味を容易に判定して、その文を難なく理解できます。このように、我々は単に言葉の持つ複数の意味を知っているだけではなくて、その言葉が、どのような文あるいは文脈の中で、どの特定の意味を持つのかがすぐにわかります。考えてみると、それができるのは、きっと、我々が様々な文脈の中で、言葉について学習してきたからでしょう。

 

さらに、この過程に、もう一つ、(上で、“難なく”と述べたことに表れているように)、重要な側面が隠れています。それは、c)上記のb)の過程を、速やかに、頭を使わずに、ほとんど“自動的に”できることです。

少し振り返っていただくと、皆様が、これらの例文を読まれたときに、ほとんどの場合、その文を途中で立ち止まったり、その言葉に注目して考えたりしないで、(おそらくは自身でも気がつかないうちに)、適切な特定の意味がわかったのではないでしょうか。例えば、その言葉の複数の意味をすべて想い出して、その中からその文脈に適合する意味を考えて意図的に選び出すといったプロセスを経由せずに、おわかりになったのではないでしょうか。

 

先に単語の数は膨大であると申しましたが、複数の意味を持つ言葉(単語)もたくさんあります。ですから、それらの言葉にかかわる文、あるいは文脈の数は無限と言えるほど膨大な数存在するはずです。そのため、ある単語がおかれている文脈と、その単語の特定の意味との関連性を理解できるようになるには、きっと、それこそ膨大な文書を読む/経験する必要があったことでしょう。ましてや、特別頭を使って考えることなく、たやすくできるようになるには。

 


 

 

・言葉の意味と“例文”

多くの辞書の大半の単語には、その言葉の意味に加えて、例文が書いてあります。例えば、国語辞典(広辞苑など)を引いていただくと、ほとんどの項目の語に、必ずと言っていいほど、意味の説明とともに、例文が記されています。 どうしてでしょうか?

 

それは、一つの言葉が、一般に思われている以上に、たくさんの属性を有しているからではないでしょうか? この例(“目的と目標”)のように、一つの言葉といえども、(辞書に載っているような短い言葉では言い表せないくらいの)多くの属性を持っているのではないでしょうか。この考え方が正しいとすれば、言葉の意味を覚えるというのは、一つの言葉といえども、多くの記憶を必要とすると言うことになります。もっと、うがった見方をしますと、言葉の本当の意味は、言葉によって短く説明できるものではなくて、文の中、文脈の中にしか存在しないとさえ言うべきなのかもしれません。

 


 


 

 

(私としては、国語学者にたずねてみたい。「あなたはどうして言葉の意味を正しく十分に説明してくれないのですか? どうして、我々自身の知識に頼った例文というこそくな手段を使うのですか?」 と)

 

b) 言葉の持つ複数のイメージ膨大な知識が必要)

以下の写真を見ていただきますと、それらの文にはすべて「トリ」という言葉が含まれます。「トリ」のイメージ(意味)は、それぞれの写真のように、大きく異なっています。それらでは、それぞれの文によって、「トリ・鳥」の持つ複数のイメージの中から、一つのイメージに特定されています。

 




 

 

これらの場合、a) 言葉(単語)の中には、複数のイメージをもつものがある。

しかも、b) その言葉の特定のイメージは、その文脈(前後関係)によって決まる。

 

この「トリ」の写真の例でおわかりのように、我々は、その文脈とその言葉の特定のイメージとの関連性がわかって、即座にそのイメージを特定することができます。この場合、かなり多くの知識が必要です。たとえば、水面を泳ぐトリには、どんなトリがいるのか。海辺で舞うトリはどんなトリか、一羽かそれともトリの群れなのか、そもそも、そのような状況にトリがいるのだろうかとかなど。一般の家で飼うのは、ペットのトリ、インコなどだろうとか。農家で飼うのは、まずニワトリだろうとか。町なかでゴミをあさるのは、まずはカラスだろうとか。食べるトリとなると、まったく異なるジャンルになってしまう、などなど。これらを正しく理解するには、結構、大量の知識が必要です。

 

しかも、言葉がたくさんある以上、その知識の量は、膨大なものとなるはずです。しかも、その知識に基づいて、それぞれの文(文脈)に見合ったその言葉のイメージを即座に浮かべなければ、その文を速やかに理解することはできません、このようなことは、「トリ」に限らず、多くの言葉で同様な処理が必要とされます。それらの知識は、学校だけで学ぶものではありませんが、現在の我々が持っている知識は、直接経験して得られるものよりも、間接的に(雑誌や本や、テレビやインターネット、等々によって)知るもののほうが多いようです。ですから、これらについても、きっと、長年の勉強、経験が必要なことでしょう。

 

そして、また、先に述べたことと同様に、非常に重要なことがもう一つあります。それは、c) 上記のb)の過程を、即時に、頭を使わずに(おそらくは自身でも気がつかないうちに)、ほとんど自動的にできることです。少し振り返っていただくと、皆様が、「トリ」の例文を読まれたときに、いともたやすく、例えば、その文を読み返したり、その言葉が持つ意味に特別注目したりせずに、(おそらくは自身でも気がつかないうちに)、正しく特定の “トリ”のイメージがわかったことでしょう。つまり、それぞれの文(文脈)の中で、その単語の(その文脈にふさわしい)特定のイメージを難なく、特別頭を使うことなく、例えば、その言葉の複数のイメージをいったんすべて想い出して、それから考えて、その中からその文脈にあうイメージを選び出すと言ったプロセスを経ずに、特定できたことでしょう(無論、場合によっては、そういう場合もあると思いますが )。

 

また、このような具象名詞だけではなくて、抽象的な言葉にもそのようなイメージ的なバリエーションを持っているものがあります。下の例文でも、具体的なイメージとはならないと思いますが、両者の「平和」には、“大きさの次元”で大きな差があるようです。

 

 例:「平和」

彼は平和な家庭で育ったので、平和な心の大切さがよくわかっているようだ。(小さな平和)

我々は、人類の幸福、世界平和を心から願っている。(大きな平和)

 

以上に述べてきた、a) 言葉の意味と文脈b) 言葉の持つ複数のイメージ(膨大な知識が必要)は、この表にまとめましたように、非常によく似ています。

 


 

 

 

引用文献など

1) Cheour-Luhtanen M, Alho K, Kujala T, Sainio K, Reinikainen K, Renlund M, Aaltonen O, Eerola O, Näätänen R. Mismatch negativity indicates vowel discrimination in newborns. Hearing Research, 1995, 82: 53-8.

2) Kuhl PK, Williams KA, Lacerda F, Stevens KN, Lindblom B. Linguistic experience alters phonetic perception in infants by 6 months of age. Science, 1992, 31: 535.

3) Boysson-Bardies Bd. Comment la parole vient aux enfants. 1996, Editions Odile Jacob. (加藤晴久、増茂和男訳「赤ちゃんはコトバをどのように習得するか」 藤原書店, 2008

4) http://tanken.com/terakoya.html

5) 杉島一郎、賀集寛 表記形態が単語のイメージの鮮明性に及ぼす影響 関西学院大学人文論究, 1997, 46: 63-86.

6) 天野成昭、近藤公久 NTTデータベースシリーズ『日本語の語彙特性』第7巻頻度 三省堂, 2000. (こんなたくさんの単語を知っているというと、驚かれるかもしれませんが、欧米の人々も、新聞、雑誌に数百万語当たり数回しか出てこないような単語でも知っていることが確かめられています。それは、おそらく、“潜在記憶” と呼ばれる自覚のない記憶能力が、我々人間に備わっているおかげと考えられます)

7) 心理学的に申しますと、漢字などの文字の一つ一つがゲシュタルト(全体的なまとまりの構造)となっていますが、各単語の文字列が一つのゲシュタルトとして、知覚されているということです。